脳卒中になって、人生面白くなってきた

愛犬とリハビリして、再生医療受けて、MBAを取って、起業を目指している人の話

回復期

大学院生になってしまった10

その講義が終了する際、先輩が飲み会を企画してくれた。先生は海外に在中していたが、帰国に合わせて開催された。先生は講師を辞め、事業に専念するのだという。当時はコロナなどなかった。とても楽しい時間を過ごさせてもらった。 この時先生に頂いた言葉で…

廃人になってしまった13

作業療法士から復職に関し、強く言われたことがある。それは私の場合、見た目が健常者と変わらない為、復職するとまわりは最初しか気を使わない。そこでドロップアウトする人が多い。出来ないことは出来ない。つらい時はつらい。必ず自分から発すること。身…

廃人になってしまった12

回復期病院から復職の許可がでたのは、発症から半年後、3月の初めだった。 4月1日からの復職の為、課題が与えられた。その課題とは、スマホでニュースを1つ読み、要約をパソコン(Ward)で打ち込むというものであった。私の出来ないことばかり(笑) スマホを読…

廃人になってしまった11

私は傷病手当をもらう為、定期的に猪八戒(入院していた時の担当医)に診断書を書いてもらう必要があった。現在リハビリで通院している回復期病院では、書けなかった。その為月に1度、入院していた大学病院に通院していた。 猪八戒はもちろん現状の私を知らな…

廃人になってしまった10

私はアホなりにも、リハビリ時間が少ないことには気づいていた。だから自宅で自主リハを沢山おこなった。鶴は何千羽折っただろう?高校球児に寄贈したいぐらい折った。分からないなりに、専門書も読んだ。左手で電卓を使って計算したり、おはじきを紙コップ…

廃人になってしまった9

回復期病院では、作業療法(手のリハビリ)に集中することになった。半年後の復職を目指すことになった。多分私はこの作業療法士に出会わなかったら、人生終わっていた。本当に出会いって大事。 私のリハビリは、左手の失調(肘が上下に勝手に動いてしまう)改善…

廃人になってしまった8

入院中よく親戚がお見舞いに来てくれた。みな退院後も色々と面倒を見てくれた。中でも1人マメに電話をくれ、アドバイスをくれた方がいた。こんな本を読んだ方が良い、こんなYouTubeを見た方が良い、全ては私を前に突き動かすものであった。 後遺症で本やスマ…

廃人になってしまった7

休職中、義父とその友人がビリヤードに連れて行ってくれたことがある。義父は75歳を超えていたが、服装も若く活発であった。大病を繰り返していたが、その度に復活した。 ビリヤード場には電車で向かった。当時電車に乗ることは地獄であった。階段やエスカレ…

廃人になってしまった6

夕方の散歩は、ご近所の犬が散歩をしている場所を選んだ。コパンに遊んでもらいたいというのもあったが、社会との繋がりを絶たれた私にとって、その場所が全てであった。ご近所の方達は、ただただ暖かかった。ゆっくりとしか歩けない私に、歩調を合わせてく…

廃人になってしまった5

退院から1ヶ月程すると、コパン(愛犬)を何とか抱き抱え、散歩に行くことができる様になった。コパンの散歩は朝と夕方。朝は妻がアルバイトに行ってから、雨が降らない限り毎日行っていた。16時以降に全機能が停止してしまう私は、夕方の散歩は15時頃に出てい…

廃人になってしまった4

半年間のリハビリ生活がスタートした。週に2回、バスに乗り回復期病院への通院。リハビリは1回につき40分。制度についてきちんと知った今では、滅茶苦茶少なかったことが分かる。猪八戒(入院当時の担当医)のせいだ。だから自宅で行う自主リハは、必死に行っ…

廃人になってしまった3

家に着くと、コパン(愛犬)が狂った様に飛びついてきた。本当に嬉しかった。生きていて良かったと感じた。ただ上手く抱え上げることが、出来なかった。撫でてやることも、ままならなかった。悲しかった。これからどう生きていけば妻やこの子を養えるのか、見…

廃人になってしまった2

当時の後遺症について少しお話する。少し長くなるが、ご了承を。 1、歩行については、見た目は健常者と変わらないまでになっていた。ただ左足が自分の思った様に上がらず、常におっかなびっくり歩いていた。 2、左手については、肘が上下に大きく揺れてい…

廃人になってしまった

1ヶ月の入院生活で、私の体重は10㎏以上落ちていた。52㎏。高校生以来だった。 入院中は病室のある階だけしか、歩行を許されていなかった。よく理学療法士が、指示を出さない医師に対し怒っていた。その理由は下界に出てすぐに分かった。 退院時、妻と義母が…